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ぬるい懐古オタクがだらだらと語るだけ。

「機動戦士ガンダム 水星の魔女」(S1 Ep. 12)

思いっきり勘違いしていたのですが、水星の魔女のシーズン1は11話で終わりじゃなかったんだ! 年末に11話を見て、あらまぁうふふ、ミオリネもスレッタも思春期だわねぇ、かわいいねぇ、と近所のおばちゃんみたいにニヤニヤ笑っていたのですが。これでシーズン2に突入かな、と思っていたら、あともう一話があったのね。

たった今気づいて、第12話を見た。(以下ネタバレ注意!)

 

 

 

うへぇ……

 

めっちゃイヤな展開だ。

まず、スレッタの母(レディ・プロスペラ)がすごい毒母だわ。スレッタの母殺しを必然にするためなのかね…。(あの手の毒母が苦手な私は、見てて気持ち悪くなりそう)

で、スレッタのあの無邪気さも気持ち悪い。高校生で、しかもMSじゃなくて、生身の人間を血まみれで殺してアレだからなぁ。(ところで、プロローグで子ども時代のスレッタっぽい子がガンダムで無邪気に喜んでモビルスーツを次々に撃破していたんだけど、あれはスレッタじゃないの? 別人説があると今、知りました。もしかして、クローンとか強化人間とか、あの類い?)

ギアスのユフィみたいにするつもりなの? 純粋で優しい女の子が血まみれで人を無邪気に殺すというのは大河内氏の趣味なの?そうなの? だったら、スレッタの未来は死によって責任取るしかないんじゃないの? なんだかなぁ…。高校生の女の子スレッタを人殺しにして、この物語の結末をどう責任取らせるのだろうか…。

 

勿論、ガンダムは兵器であり、ガンダム世界は戦争がいつもその背景に必要なのはわかっています。(戦争がなければ兵器のガンダムもMSもいらないからね。)ただ、人を殺すことの犯罪性と主人公たちの正義はいつも、微妙なバランスで成り立っていたし、そのバランスや必然性はどのシリーズでもアジェンダとしてあがっていたわけで。

戦争とか虐殺を虚構として楽しむためのお約束というのがあって、そのお約束が崩れると、物語として楽しめなくなるんだよねぇ。(少なくとも私の場合)

たとえば、安彦監督の映画「ククルス・ドアンの島」では、アムロがガンダムで生身の兵士を踏み潰すシーンがあって、私は正直好きじゃなかったんだよね。アムロはガンダムで戦うことにいつも葛藤を抱えていて、人を殺すことに対して苦しんでいる。もちろん、ジオンと戦う理由付けは色々なされているし、彼をただの人殺しだとみなすことは初代ガンダムの読みとしては甘いと言える。ただ、生身の人をガンダムで虫けらのように踏み潰して殺すというのは、お約束のラインを越えつつあるなぁと思ったんだよね。つまり、アムロが人殺しとして責任を問われるラインだし、戦争がただの物語背景として働かなくなってもおかしくないラインということ。

 

あのスレッタの描写は、戦争における人殺しがただの舞台装置でなく、製作者が意図的にリアリティを持たせてしまったが故に、スレッタは人殺しの責任を問われざるを得ない。これは物語をすごく縛ることになるから、製作者が顛末をどうつけるのか興味があります。

 

このあたりの戦争描写のバランスって富野監督はさすがに上手かったと思います。今の若い世代の課題なのかもしれないですけど。

 

シーズン2をドキドキしながら待つことにします。

あ、でもその前に、組織や技術の設定を勉強しておきます。実は誰がどの組織に所属していて、パーメットとかいうのが何なのかもさっぱりわかっていないので。

 

 

(ちなみにこの物語のバックグラウンドとしての戦争・虐殺というのは、進撃の最終回を読んでから、この数年間つらつら考えつづけていることです。)

 

banana-snow.hatenablog.com