Untitled

ぬるい懐古オタクがだらだらと語るだけ。

サウンドCD「Gundam Odyssey」(ガンダムZZ再考 3)

今週は連休で、束の間の休息。ああ、冬休みが待ち遠しい……。

ここ最近、アニメ版バナナフィッシュの話題ばかりだったので、久しぶりに違う話題でも。

 

サウンドCD「ガンダムオデッセイ (Gundam Odyssey)」(1991年)について少し書き残しておこうと思います。

 

 

GUNDAM ODYSSEY

GUNDAM ODYSSEY

  • アーティスト: サントラ,林原めぐみ,椎名恵,冬馬由美,永井一郎,戸田恵子,池田秀一,池田鴻,TVサントラ,飛田展男,島津冴子
  • 出版社/メーカー: キングレコード
  • 発売日: 1991/03/05
  • メディア: CD
  • この商品を含むブログを見る
 

 

中古品の入手自体は簡単でした。レンタル落ちのものが安価で出回っています。

 

 2枚組のCDで、主題歌にキャラクターの語りが入ったサウンドトラック+ラジオドラマという構成になっています。初代ガンダム、0080(ポケ戦)、Z、ZZ、逆シャア、F91までを時系列的にカバーしています。

1991年に発売の公式作品なのですが、映像作品ではないので、見過ごしてしまっていました。

一見どうっていうことのない、サウンドドラマCDという感じなのですが、よく聴くと新しい発見があって非常に面白かったです。正直に言いますと、今更、当時の公式もので新しい発見があるとは思ってもみなかったので、自分的には結構衝撃でした。

 

で、そもそもなんで今更こんな古いものを購入したかというと、以前のエントリーがきっかけでした。

 

banana-snow.hatenablog.com

 

どなたか作られたか存じ上げないのですが、「一年戦争史」というお気に入りのガンダムMADがありまして、その中で使われていたハマーン様の独白音声を探しているけど見つからないよ~と喚いていたところ、通りすがりの親切な方がこのサウンドCDですよと、コメントして教えてくださったのです。

ということで、このサウンドCDにはまだお若いころの榊原良子さんの撮り下ろし音声が入っています。もうそれだけで買う価値はあると思えるくらいに榊原さんが好きです。

Disk 1はファースト、ポケ戦、Zガンダムの前半(フォウの死まで)がカバーされています。

Disk 2 の内容は以下の通りで、Zガンダムの後半(アクシズを交えた三つ巴の戦い)、ZZ、逆襲のシャア、F91をカバーしています。(F91はエピローグ扱いなので、あまり内容はないような)

1. 水の星へ愛をこめて 
2. ステージ9 発動
3. ステージ10 ジュドー・アーシタ
4. ステージ11 プルとプルツー
5. ステージ12 奔流 
6. 「逆襲のシャア」メイン・タイトル
7. オーロラ
8. ステージ13 革新
9. ステージ14 主権
10. ステージ15 アクシズ
11. ステージ16 光芒
12. ビヨンド・ザ・タイム
13. エピローグ~君を見つめて

 

で、問題の「Stage XII 奔流」はハマーン様の独白から始まります。

我々はなんとしてでも勝たねばならない。そのためにはプルツーのような強化人間に頼らなければならないのもまた事実。……フッ、ジオンに兵なしとはよく言ったものだ。シャア・アズナブルか……。あの男さえいてくれたならな……。あのように……あのようなことにならねば、まだ手はいくらでもあったというのに、それほどまでに私が許せなかったというのか、あの男。……これも所詮愚痴か。私にはそのような過去を引きずっている時間はない。目の前の敵は退けなければならん。ジュドー・アーシタ……。フッ、あれほどまでに無垢に生きてもみたかった。叶うことならばな。しかし、けじめはつけさせてもらう。

 

この独白は、榊原さんの吐息まじりの演技がめちゃくちゃエロいという身も蓋もない感想は置いておいて、なんというか胸にぐっとくる……。本編でハマーン様は愚痴を漏らすことはなかったので、こう脆い内面を見せられると、辛いよね。孤独なヒロイン感が漂っています。にしても、榊原さんって、強い女が垣間見せる脆さとか儚さを感じさせる演技が本当にお上手です。しかも、吐息がそそるなぁ……。

 

兵力に劣るネオジオンが勝つためには「プルツーのような強化人間に頼らなければならないのも事実」というセリフは、マシュマーとキャラを強化人間にしてまで使わなければならなかったことの言い訳ですかね。(実際のところ、プルツーに頼っていたのはグレミーだったから。)ハマーン様はあの二人を強化人間にしてしまったことを内心気に病んではいるんだけど、それを面に見せられないんだよね。そして、この期に及んでもまだシャアに頼りたかったっていうのがねぇ…。Zガンダムの後半であんなにいがみ合い、殺し合い、訣別しているのに、それでもシャアを諦めきれないのがハマーン・カーンという女だとわかってはいるんだけど、すごく痛々しい。

 

ハマーン様はジュドーに対して「退けなければならない」敵だと一応認識はしているんだけど、憎悪とか嫌悪とかそういうネガティブな感情は全く見えないのが、この二人が戦う理不尽さを感じさせる。彼女には、Z後半でカミーユやシロッコと戦った時のような殺意とか悪意のようなものがないし、あくまでも「退ける」だけ。ジュドーにはリィナの件があるから戦う理由があるけど、ハマーン様にはないんだよね。でも、自らの進路を阻む存在は「敵」として認識せざるを得ないから、「けじめ」として戦うっていうのが、非常にやりきれない。ラスボスとの一騎打ちが無意味な戦いとなれば、ZZの物語自体が無効にされてしまう。(そしてハマーン様の死も。無駄死に…)二人とも本当に倒さなければなければならない相手は別にいるっていうことはわかっているんだけど、運命的に戦わざるを得ないっていうのが、ガンダムらしいといえばそうなんだけど…。

で、ここでも、「大人のハマーン」vs「(無垢な)子どものジュドー」という対比がなされているわけですが……。叶うものならジュドーのように無垢に生きてみたかったという告白は意味深。シンプルに考えれば、

  • 子ども時代を子どもとして無邪気に生きられなかった。(一年戦争の頃はフラナガン機関にいたから。)
  • 少女時代はアクシズで政争と戦争に明け暮れた。(ミネバの面倒を見ながら父の跡を継いでアクシズをまとめて、地球圏に帰還準備を進めて…などなど。シャアとの初恋も、むしろ辛い思い出。)

無垢でいられたはずの十代を奪われてしまった恨み節? 

物語的に言えば、ジオンの政治体制や取り巻きの大人たちが彼女を無垢な女の子でいさせてくれなかったということなのだけど、メタフィクション的に考えれば、ZZの製作陣が、Z時代では生意気な小娘だったハマーン・カーンをZZでは大人の女にしてしまったんだよね……。

ZZでは大人vs子どもという基本構造があるから、子どものジュドーと対比させられるためにハマーン様が大人の女にさせられてしまったのがここでも明らかに。Z時代の生意気な女の子っぽさをジュドーに対しても見せていたら、ジュドーとの関係はどうなっていたんだろうか、と妄想が湧きます。

 

で、この独白のあと、「サイレントヴォイス」をBGMに二人の一騎打ちシーンが続くのですが、ここで一つ面白い改変が。

ハマーン様の最期の言葉ですが、

テレビ本編「帰ってきてよかった。強い子に会えて」

サウンドCD「帰ってきてよかった。強い子たちに会えて」

ええー、どうして複数形にしたの??? 

単数形だと、ジュドーのことを指すのは明らかなので、彼がハマーンにとって特別な存在だったってわかるけれど、複数にすると、シャングリラの子どもたちを指すことになるから、二人の特別な関係性が薄くなってしまう。なによりも、複数形だと子供たちに対する「お母さん」っぽさが強調されるわけで。でも、以前のエントリーでも言ったけど、ハマーン・カーンという女の本質は少女であって、母になることを拒絶しているひとだから、そんな彼女を無理やり母にするのはひどいと思う。ハマーンをお母さん扱いにして彼女の死に意味を持たせるのはやめてくれー。

 

(以前のエントリーでZZのハマーン様大人化&母化問題について書いているので、もしよろしければどうぞ)

 

banana-snow.hatenablog.com

 

 

でもって、この「複数形」問題なんですが、逆襲のシャアでも同様の改変が!

「Stage XIV 主権」にシャアの演説があって、その中でハマーンを批判するところですが、

劇場版本編「ザビ家の残党を騙るハマーンの跳梁ともなった」

サウンドCD「ザビ家の残党を騙るハマーンらの跳梁ともなった」

まあ、確かに第一次ネオジオン抗争はハマーンだけの責任じゃなくて、彼女を担ぎ上げた人たちにも責任はあるわけで、複数形にすることで彼女以外にも責任があると指摘しているのはいいことだ。(ただ、シャアはハマーンに対してそんな思慮があると思えないけど……。)

あ、ちなみにここでシャアが「ハマーン・カーン」とフルネームで呼ぶのではなく、「ハマーン」と名前だけで呼ぶのが好きです。なんというか、シャアが「身内の不始末」と捉えている感が漂うので。

 

最後に、このジュドーとハマーン様の一騎打ちのあと、ジュドーはブライト艦長を殴って、「一千万年銀河」が流れ始めるんですが、ZZ締めくくりのナレーション(これブライト艦長=鈴置さんのお声だよね?)なんとも後味が悪い。

 

そしてこの戦いの後、ジュドーは自分をさらに高めるべく木星へと向かった。それともそれは、嫌な人間たちのいる地球にさよならを告げるためだったのかもしれない。

 

うーん、木星に旅立ったのは、「子ども」のジュドーがイヤな大人たち(地球人)に敗北したってことなのか……。ZZはガンダムに珍しくハッピーエンドの作品とされているんだけど、必ずしもそういうわけではないよね。ハッピーエンドと言われる要素は、リィナとジュドーの再会があったからなんだけど、政治的には何ら改善の兆しがないという…。ハマーンが死んで、ネオジオンは敗北したけど、だからと言って地球連邦が変わるわけではないし、日和見な大人たちは相変わらずだし。ブライト艦長は大人の代表としてジュドーに殴られたけど、本当に殴られなければならない人(地球連邦のお偉いさん)は別にいるよねってことで、これもハマーンとジュドーの戦いの構図と同じだよね。

大人の代表として倒されて死んだハマーン様は無駄死にだし、同じく大人の代表として殴られたブライト艦長も殴られ損だ。バッドエンドとまではいかなくても、ハッピーエンドと言い難い…。

 

ところで、閃光のハサウェイが映画化されるそうですが、あれもとうとう公式になっちゃうのか。どこまで、宇宙世紀ものに依存するんですかね、ガンダムシリーズは。お金持っている中年は宇宙世紀ものにしか反応を示さないからなんでしょうが、うーん、複雑な心境だ。これでまた後付け設定が増えそうだし、なによりもブライト艦長がかわいそう。なので、閃ハサは映像になってほしくないとずっと思っていました。

ブライトさんは宇宙世紀シリーズの男性キャラで、シャアと並ぶくらいに好きなので、不幸になってほしくない……。シャアは私にとってすごく愛憎のあるキャラなので(ハマーン様絡みで「憎」の部分も大きい)、純粋に好きだと言えるのはブライト艦長の方かも。だから、閃光のハサウェイが映像化(=公式化)して、ハサウェイが処刑されるのはブライト艦長が可哀そうすぎてたまらない。あ、ハサウェイ生存エンドならいいんですけど。