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ぬるい懐古オタクがだらだらと語るだけ。

Stephen Nomura Schible 「Ryuichi Sakamoto: Coda」 (2017)

Stephen Nomura Schible (スティーブン・ノムラ・シブル)監督の "Ryuichi Sakamoto: Coda" を見てきました。

坂本龍一氏に関するドキュメンタリー映画なのですが、私の心の琴線に触れたようで、胸が一杯になりました。最近仕事で行き詰っていたので、個人的な事情とオーバーラップさせてしまったからなのかもしれませんが。

 

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ポスター

上映した映画館は20人くらいしか入れない、試写室のようなミニシアターでした。あまりの小ささに一緒に見に行った友人と思わず顔を見合わせてぷぷっと噴き出してしまいました。平日の夜で、観客は10人くらい。むしろ10人もこんなマイナーな映画を見に来るのか!と驚きました。

 

以下雑感です。ネタバレありなのでご注意ください。

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ZZのハマーン・カーンについて

また考えが変わるかもしれませんが、ハマーン様について現時点で思うところを以下に記録。

 

  1. ラスボスからヒロインへ
  2. ヒロインの孤独
  3. 少女から大人の女へ(ZからZZへ)

 

  • ラスボスからヒロインへ

ハマーン様はガンダムシリーズにおいて、唯一といってもいい、女性のラスボス。

勿論、Vガンのカテジナさんも、ウッソにとって、また物語的にもラスボスではあるけど、ザンスカール帝国という組織においては所詮一パイロットに過ぎないわけで。

その点、ハマーン様は、主人公が倒すべき敵として、ZZという物語として、そしてネオジオンという組織のトップとして、まさに完璧なラスボス。

女性でありながら圧倒的に強いパイロットであり、敵対組織の強力な指導者でもあるというのはガンダムシリーズで珍しいケースです。どちらか片方ならともかく。

女性のラスボスという点だけでも珍しいのに、ハマーン様はラスボスを2回やっているというのも特筆すべきことかと。

Zにおける三つ巴の戦いの中で、ハマーン様はシロッコとともにカミーユが倒すべき相手だったけど、結局シロッコだけがカミーユに倒され、ハマーン様は生き残った。なので、続編のZZで真のラスボスとして倒されたという経緯です。

 

二回ラスボスを務めたのは、シャアも同様だけど、勿論、シャアという人物は宇宙世紀シリーズの(影の)主人公なのでスペシャルなのは当然。ハマーン様もその点ではまさしく女版シャアともいえる程度には特別な存在かな。

ただ、ガンダムサーガにおいてハマーン様はシャアにはなれなかった。悪い意味でハマーン様はシャアのシャドウといえる存在でしかありえなかったから。(シャアと過去に特別な関係があり、彼になろうとしてなれなかったという意味でもね。)

でも、面白いのは、ZZにおいて彼女の孤独な部分がクローズアップされたことで、単なる悪のラスボスではなく、悲劇のヒロイン感が出てしまったというところですかね。

 

前作のZにおいて、ハマーン様がシャアと男女の関係だったことと、ハマーン様がシャアを諦めきれない部分を見せたことで、訳アリ過去を持つ女という点はすでに語られていたけど、ZZではそこに孤独な女という属性がつき、事実上ZZのヒロインに。

実際、ZZという物語はハマーン様がいなければ成立しない。極端な話、主人公はジュドーじゃなくてもいいし、ビーチャでもモンドでもグレミーでもラカンでもプルツーでも、ハマーン様を討った人がZZの主人公となり、物語は終了。でも、討たれるのはハマーン様じゃなければならない。それはZで生き残ったラスボスが彼女だけだから。当時の大人の事情でいえば、逆シャアの製作が決定し、アムロとシャアの一騎打ちに不要なキャラは全て退場させなければいけない。だから、ハマーン様が討たれて退場するのは既定路線。(ついでにカミーユとジュドーも退場させる。)でも面白いのが、そこで悲劇のヒロイン感満載のラスボスにしてしまったのがZZの後半パートだと思う。スタッフの間でハマーン様に同情が集まっていたのかもね。

 

  • ヒロインの孤独

で、ZZでクローズアップされたハマーン様の抱える問題は、1)指導者としての孤独、2)ニュータイプとしての孤独、3)女としての孤独、の3つが複雑に重なりあっていて、なかなか難しい状況。

 

1)指導者としての孤独

シャアがアクシズを去って、アクシズを一人で背負うことになった時からですかね。ただ、彼女の指導者としての孤独は、アクシズ(ネオ・ジオン)の政治的・軍事的オペレーションにおける孤軍奮闘というのもあるだろうけれど、ニュータイプとして人類の未来に対するビジョンをシェアできる人がいないという部分もあると思う。実際のところ、彼女のビジョンは独善的で選民主義なのでついていける人は少ないと思うけど・・・。実務面だけではなくて、NT能力に基づいた思想面での孤立というのはなかなか埋めがたいものがあるんじゃないかと。ここは、まさしく、シャア一択。(シロッコも可能性はあったけど)

ジュドーではハマーン様の指導者としての孤独を埋められないと思う。彼は元気で明るくていい子なんだけどね。

 

 2)ニュータイプとしての孤独

実際、ニュータイプってどの人もみんな不幸だよね。シャアはニュータイプの成り損ないと言われてたりするけど、まあ一応NTにカウントしたとしても、やっぱり不幸。なので孤独なのはハマーン様だけじゃないんだけど・・・。

彼女にとって不幸だったのは、接触したNTがシャア、カミーユ、シロッコと、どいつもこいつも曲者ばかり。さらに、ここで問題になるのが、NTの男女は恋愛関係に陥ってしまうということ。これは原作者におけるNT論の限界ともいえるけど、ハマーン様にとってはすごく不幸。シャアとは恋愛関係は破綻しているし、シロッコは女を駒として使うタイプで、ハマーン様とは相性が悪い。(ハマーン様は男の駒にならないよね。女王様気質だし。)

問題はカミーユ。彼とは精神感応をしたけど、結果的に殺し合いになってしまった。それは、カミーユとの精神感応では触れられたくない記憶を無理やり暴かれて、ハマーン様にとっては疑似的にレイプされたも同然だから。そもそもNT男女間における精神感応って精神的なセックスだから、勿論、カミーユは意図したわけではないし、彼に罪はないけど、ハマーン様にとっては望まない形で心の中に入り込まれたので、まさしく精神的レイプ。そりゃ激怒するよな。Zでのあのシーンは本当にハマーン様が可哀想で、見るたびに胸が痛む・・・。

ジュドーとは精神感応をしなくてよかったと思う。精神感応が疑似的セックスならジュドーはまだ若すぎるし、彼にも暴かれたら、ハマーン様が可哀想すぎて、救いがなさすぎるもの。 

 

3)女としての孤独

で、前述の通り、NT男女は恋愛関係に陥いるという点を考慮すると、ジュドーは子どもすぎる。ハマーン様がジュドーを篭絡しようとしたのはシャアからの影響かと思うと苦笑いせざるを得ないけど。異性のNTとはとりあえず恋愛関係(肉体関係?)に持ち込むというのは、女たらしのシャアならともかくハマーン様がするのはちょっとハラハラする・・・。だって、ハマーン様自身も大人ぶっているけど、シャアとの未熟な初恋に固執してるあたり、恋愛年齢は15歳くらいでしょ。恋愛に不慣れな少女が子供を誘惑しているようにしか見えない。

ジュドーがせめて17歳くらいで恋愛関係を持てるような年だったら、悪くないチョイスだったと思うんだけど、残念!

一番の問題は、シャアとの関係で受けた少女時代の傷をまだ引きずっていることかな。 ハマーン様がNTじゃない男と恋愛関係を持てればいいんだけどね。NTじゃなくてもいいから、傍にいてくれて支えてくれればOK、という風に彼女が割り切れればいいけど、それはなさそうだな・・・。ネオ・ジオンの女帝で、強力なNTで、気は強いし、ひねくれていて面倒くさいタイプだからね。そりゃ女として孤独に陥るのはわかる。

 

結局、この複雑に絡み合った孤独を一気に解決できそうな相手はシャアしかいないし、そういう点でハマーン様が彼に執着してしまったというのはすごくわかるんだよね。

シロッコも可能性があったとは思うけど、恋愛という面では疑問符がつくし、ジュドーは1)の部分が弱いし、恋愛相手としてはまだ子供。

 

一番手っ取り早いのは、指導者としての孤独を解消するために指導者を降りること。女であることとNTであることは変えられない属性だけど、指導者の立場は変えることができるからね。残っている2)か3)なら割となんとかなるんじゃないだろうか。

ただ、彼女にとってはアクシズ(ネオ・ジオン)の指導者を降りる選択肢は一番ないんだと思う。今更後には引けないだろうし、彼女自身の野心もあるし。結果的に一番犠牲になっているのは、女としての孤独かな。辛いね。

 

ZZはハマーン様の孤独をクローズアップしようとして、それ自体には異議がないんだけど、描き方がまずいと思う。

一番の悪手は、新興宗教の教祖サラサにハマーン様の内面を語らせたこと。これは唐突感が拭えないし、所詮電波女の戯言としか思えない。それと、ニュータイプ能力と宗教的霊能力がここでオーバーラップしたのも拙いと思う。

ハマーン様のモノローグがもう少しあればよかったんだけどね。「塩の湖」の回で、シャアに思いを巡らせながら自分の孤独を吐露している部分があって、あのシーンはすごく好き。こんな感じのモノローグがあと2回くらいあれば十分だったと思う。あとは、誰か第三者の視点で彼女の孤独が描ければよかったんだけどね。プルでそれができればよかったけど、難しいのはわかる。

 

最後に、メタレベルでいえば、ハマーン様の孤独は製作者側の限界を見せていると思う。

まず、男女のNTにおいて、関係性が恋愛関係になってしまうというのは、NT論の限界だと思う。そして、その次は母と子の関係性になってしまうこと。これもNT論の欠陥だ。

象徴的な部分は、カミーユとハマーン様が精神感応を起こしたとき、カミーユはハマーン様に母の姿を見て、ハマーン様はシャアを見たんだよね。シャアがララァに母を求めたというのもそうなんだろうけれど、恋愛関係でなければ、母子の関係になるって、男性中心の考え方だ。

ハマーン様が最後に残した言葉が「帰ってきてよかった。強い子に会えて」だけど、ハマーン様は最後に母のようになって死んでいった。でもそれって彼女が望んだことではなくて、母にさせられたんだと思う。

そもそもハマーン様の本質は少女で、母親になることを拒否している人だから。シャアが求めたようなミネバの母親にはなれなかった人だもの。そして、シャアとの傷ついた過去の少女時代を心に抱えてしまった女だから。

でも、まだ子どものジュドーと恋愛関係が成立しない以上、彼女を母親にすることでしか、(製作者側は)二人の関係を成就させられなかった。これじゃハマーン様は救われないよ。

 

皮肉なのが、ジュドーは母親を求めていたわけではないんだよね。彼が求めたのは妹だけ。ハマーン様は彼の庇護対象としての妹には原理上なれたと思うけど、それってグロテスクでしょ。Zのロザミアが年上の妹という強化人間の悲劇を見せているけど、ハマーン様は強化人間ではないから、年上の妹になれば、それは悲劇ではなくて喜劇だ。

 

結局、ハマーン様は今までのNT少女(ララァ、フォウなど)と決定的に違っているのが、彼女はただのパイロットではなくて、高い能力、強い意思と権力を持ち、指導者としての立場があった。だから、か弱いNT少女パイロットとは男との関わり方が決定的に違う。でも、その部分を製作者側が咀嚼できていない。従来のNT男女関係で解釈していくと、うまくいかないのは当然だと思う。

でも、私がハマーン様に心を奪われているのは、彼女の存在そのものが、ダークな魅力を発揮しながらそんなガンダム世界の構造に問題点を突きつけ、抗っているところだと思う。

そもそも富野監督はハマーン様をただの小悪党として描こうとし、CVの榊原さんもハマーン様を危険な存在の女として表現しようと努力されたけど、結果は、お二方の意図とは離れて、ハマーン様は魅力的なダークヒロインと化して多くのファンを獲得してしまった。でも、それは、彼女が生みの親たちにすら抗うことでその魅力を増しているからだと思う。

 

  • 少女から大人の女へ(ZからZZへ)

ハマーン様が人気が出てしまったので、榊原さんがその演じ方を失敗したと思っていらしたのは有名な話だけど、 それは榊原さんの失敗じゃない。

Zでハマーン様が人気が出たのはある意味で必然だと思う。

生意気な小娘がオッサンたちの抗争に割って入り、オッサンどもを翻弄していくのは見ていてとても痛快でしょ。Zのハマーン様の高慢ちきな小娘感は大好き。あのシャアに頭を下げさせているのも愉快でしょ。

Zにおいてハマーン様には迷いがなくて、明快な行動原理があったから、迷走しているシャアやその他のオッサン勢力に対して、強い立場でいられたし、そのおかげで生意気で痛快な小娘でいられた。

でも、ZZにおいては、その立ち位置が一変して、シャングリラの子供たちに対して「大人」という立場に追いやられ、愉快で自分勝手な子供たちから追われる立場になってしまった。オッサンたちを脅かす小娘(Z)から子供たちに脅かされる大人の女(ZZ)へ変わってしまったことは、ZZにおけるハマーン・カーンという女性の描き方を難しくしたと思う。(それは、Zにおけるシャアの描き方の難しさと似ているかも)

 

ハマーン様が大人の女として描かれたことは、その派手な衣装(あれは何事?)とジュドーに対して大人の女として誘惑しようとしたところから明らかなんだけど、Zとのギャップが大きいのは否めないと思う。

好意的に解釈できれば、

ZZにおいてハマーン様は無理をして大人の女としてふるまっている。痛々しい。健気だ。

 

となって、ハマーン様に萌えることができる。

でも、好意的に解釈できなければ、

製作者の都合でキャラクターに一貫性がなくなってしまった。最悪だ。

 となる。

 

このあたりの解釈の違いはハマーン様の少女性をどう捉えるかによりけりかな。

私はハマーン様の本質は少女だと思っているから、Zで見られた彼女の少女性がZZで消えてしまったことをすごく残念に思っている。無理をして大人の女として振る舞っていると好意的に解釈しようとしているけど・・・。一番違和感があるのはジュドーを大人の女として誘惑しようとしたところだな。彼女が少女である所以は、シャアとの少女時代の未熟な初恋を振り切れていないところだから、すさまじく違和感がある。まぁ、そこを「無理しているハマーン様は可愛い」と思えれば、OKなんだけど。

ただ、 Zで見せていた少女っぽい内面は、シャアとの関係性で見えてくるというのもあるから、シャアのいないZZでは少女のような内面を見せられないというのもわかるんだけどね。この点において、ハマーン・カーンというキャラクターはシャアとの関係性に依拠しているから、物語的にシャアのシャドウにしかなりえないのが残念なところ。彼女が最後にシャアとの過去を昇華できていたらね・・・。

でも、私は、大人の女が少女のような内面を抱えていること自体は魅力的だと思うし、ハマーン様がシャアとの記憶を大切に抱えていること自体は彼女の可愛らしいところだと思う。問題は、その少女のような部分が彼女にとって明らかに苦しみを生んでいるところだから、その傷を癒せれば救われたのにね、っていう話。

最後に、アステロイドベルトでの少女時代は、シャアとの関係以外では、本編で描かれていないので、どの程度彼女の傷になっているのかは不明。このあたりを本編でわずかでも描写があればよかったけど、ないものはしょうがないね。暗くて寒い生活だったんだろうけど・・・。

 

 

 

 

 

男性監督と榊原良子さま

ようやく私の脳内におけるハマーン様占拠率が95%くらいから70%くらいに下がりました。日常生活に支障を来たしていたので、とりあえずよかった。あと50%くらいにまで落とさないと仕事にならないので、もう少し妄想を吐き出さないと。

 

以下、ハマーン様に罵られそうな俗物ネタなので、ご容赦を。(ハマーン様には土下座)

 

ネットの海をさまよっていると面白い話を見かけました。

富野監督曰く「ハマーンは処女」。

一方で、ハマーン様のCV榊原さんはハマーンはシャアと寝ていたと思って演じていらした。

 

この説は出典が不明なのですが、ネットでまことしやかに語られています。

真剣に出典が知りたい。このポストをご覧の方で出典をご存知の方がいらしたらこっそり教えてください。

 

これって面白いなあと思います。私も榊原さんと同様で、ハマーン様はシャアと寝たからこその執着だと思うのですが。寝ていない男にあそこまで執着する女はいないよ~と女の立場からは思います。

ハマーン様の初めての男がシャアだった。で、あれほど執着するというのならとてもわかる話です。

私の感覚としては:

初めての男に執着する(→わかる:過去の男が上書き消去されないタイプ)

初めての男に執着しない(→わかる:過去の男が上書き消去されるタイプ)

寝ていない過去の男に執着する(→ええ?なんで?)

寝ていない過去の男に執着しない(→そりゃそうだ)

 

富野監督は、何を以てしてハマーン様がシャアに執着していると考えているのか・・・。まさかただの粘着質なストーカー?(まあそれも正解なんだろうけど)

 

まあ、ハマーン様がシャアと寝ていなければ、間違いなく処女だろうから、それはそれで二次創作的には楽しく妄想できるのでいいんですけど。(結局はそこかい!と自分で突っ込みを入れるところ)

 

 

榊原さんに関しては、劇場版パトレイバー2の南雲隊長をめぐって、押井監督と喧嘩したというお話がすごく好きです。榊原さんにしてみれば、南雲しのぶという女性がああいう理詰めなセリフ(最後の柘植とのやり取りですね)を吐くことはないと感じていらしたというのは、すごく共感できる話です。で、あの押井監督にはっきりと自分の意見を仰ったというのは本当に素敵。勿論、榊原さんほどの力量がある方で、押井監督もそれを認めていらっしゃるという関係だからこそと思いますが。(ぽっと出の若手なら監督に逆らうことなんてできないので)

そして、しのぶさんのセリフに納得がいかなくても、ちゃんと形にしてみせた榊原さんは素晴らしいです。(柘植とのやり取りのしのぶさんは切ない…)

 

 

 

楊雅喆 「血観音(Xue guanyin/The Blood, the Corrupt, and the Beautiful) 」2017

もう一つ中国語圏映画、というか台湾映画を最近見たので、以下雑感。

 

楊雅喆 「血観音(Xue guanyin/The Blood, the Corrupt, and the Beautiful) 」2017

 

こちらも前回のエントリー同様、割といいレビューだったので見てみました。台湾映画を見るのもすごく久しぶりです。

内容は台湾の上流階級を舞台にしたやくざものって感じ。

アンティークの売買は表向きで、政界の裏金工作などのダークなお金を扱っている、上流階級の奥様が、不正をばれそうになったので、人を殺し、次々と殺人をするのですが、それに娘と孫娘が巻き込まれていくという話です。

うーん、プロットがいまいち唐突というかついていけない感じです。

 

主眼は母と娘の葛藤というだけあって、母、娘、孫娘の三代を演じた女優陣の演技は見事でした。

 

あとは、台湾映画にありがちな中途半端な日本語とか、そういうのはまあ、日本人の私としては微笑ましく見られるから、いいかな。あと、主人公母娘たちの家も日本家屋だったのが、台湾の上流階級が誇る(?)日本趣味を表していて、微笑ましいという感じ。

 

映画冒頭に語り物のシーンがあって、通俗仏教的な因果応報を説いています。

いわゆる弾詞という芸能なのですが、このシーンがコミカルで面白かったんです。

で、最後にもこの弾詞のパフォーマーで締めくくるのかと思いきや、そうではなかったので、肩透かしをくらった感があります。

 

えーと、お勧め度としては、まあ、そんなに、という感じです。台湾映画マニアならともかく…。

 

 

 

 

 

馮小剛「Youth (Fanghua/芳華) 」2017

長い間、中国(語圏)映画とはご無沙汰でした。昔は好きでよく見ていたんですが、単に忙しいのと、限られた時間の中でアニメを優先させていった結果、中国映画のブランクはひどくなる一方に。残念ながら、私の中国映画の知識は所謂第五世代で止まったままです……。

 

この前、珍しいことに比較的最近の中国映画を見たので、以下、超簡単に雑感。

 

馮小剛「Youth (Fanghua/芳華) 」2017

 

以前どこかでレビューを読んで評判が良かったので、見てみました。素直にいい映画だなと思いました。(小並感)

内容は、文革時代の人民解放軍の文芸工作隊の隊員たちの青春を描いたものです。共産主義国のプロパガンダ芸術が好きなので、それだけで美味しくいただけるというものです。(『白毛女』とか)

 

ちなみに女の子たちがすごくエロかわいいです。ダンスや水泳やら健康的な青春を描きながら、実はエロ目線?というシーンが多くて、ドキドキしました。馮監督はなかなかツボをおさえていますな。(エロおやじ目線ですみません)

 

報われない愛とか、いじめとか、きつい人間関係てんこもりです。

 

ヒロインの何小萍がすごく可愛そうなのよ。父親は労改送りで、貧しく育っているのですが、才能を見出され、名前を変えて入団。でも、いじめに遭って…。父親は娘からの手紙を受け取っているんですけど、返事を出すことができなくて、結局死ぬんですが、このシーンには泣きました。

で、ヒロインを暖かく支えていた劉峰というヒーロー(超イイ人)には好きな人がいて、この女性に告白し抱きしめたたところを人に見られて、女性は身を守るために(恋愛はご法度なので)ウソをついて彼を告発します。結果、彼は文工団を追い出されて、中越戦争の最前線に送られます。で、右手を失うことに。

(ちなみに、彼にウソの告発をした女は、最後は金持ち華僑と結婚してオーストラリアに引っ越すという超勝ち組。なんて皮肉な結末。でも人生ってそんなもんよね…うう)

 

ヒロインも舞台で演じることを拒否して、その報復として、看護婦として中越戦争の最前線に送られ、心を病むんです。

 

文革も終わり、改革開放路線になって、文化工作団は解散します。この解散シーンもなかなか泣けます。個人的にも、人民服時代の中国が懐かしいので、なんというか、あの時代の中国はもう帰ってこないんだなっていう感じですかね…。

長めのエピローグとして、90年代、中年になった元団員たちの生活が描かれています。拝金主義が蔓延する現代で、日銭を稼ぐことすらできない劉の姿が本当に涙を誘います。戦争の英雄だったはずなのに、労働者として貧困に苦しんでいる退役軍人の劉。彼とヒロインの何小萍は戦没軍人のお墓の前で再会して、残りの人生を共に生きます。(結婚はしなかったとナレーターは語りますが)これはわずかな救いではあるんですけど、お墓の前で再会っつうのはちょっとメロドラマ過ぎますかね?

 

にしても、検閲が日ごとに厳しくなっている習近平政権下で正直よく公開が許されたなと思います…。

 

後半の中越戦争描写がかなりエグイのでグロテスク描写がダメな人にはお勧めできませんが、そうでなければかなりお勧めです。(正直、グロ耐性のある私でも、結構きつかったんですが・・・)

 

六条御息所=ハマーン様?

最近何がやばいかって、私の脳内の95%くらいをハマーン様が占領しているんです。おかげで仕事に支障を来たすレベル。今週末締め切りの仕事が終わらん。今月末締め切りの仕事も相当やばいです。

 

で、本居宣長先生の「手枕」を読んでいたら、「源氏物語」の女たちの中で、六条御息所はハマーン様だな、榊原良子さんのお声も似あうし、とか考えはじめる始末。

(「手枕」とは六条御息所と源氏の出会いについて宣長先生が妄想した源氏物語の二次創作。私もいつか源氏の二次小説書きたいなあと夢を見ているんです。源氏×六条御息所や夕霧×紫の上とか。前東宮×若かりし頃の六条御息所も楽しそう。でも和歌のシーンとか書けないし…。和歌の勉強からしなくちゃなんて、無理ゲーだ。)

 

昔から六条御息所がすごく好きなんですよ。大人の女で美しくて、教養と知性があって、プライドが高くて。で、光源氏にどうしても素直に甘えられなくて、苦しんで苦しんで、源氏の相手の女に憑りついて殺すくらいに闇を抱えるように…。まさしくダークヒロイン。

 

六条御息所は格の高い大臣家の娘(でないと東宮の女御にはなれない)だけど、実家には頼りになる男性がいないみたい。そういう女君は零落するものですが、彼女がすごいのは、東宮の未亡人となり、実家に頼れる人がいないのに、それでもしっかり邸宅を趣深く維持して、彼女の周囲は優雅なサロンとして若い公達を惹きつけるんですね。(しかも幼い娘も育てている。)そういう才覚は本文では詳しく描写されていないんですけど、六条御息所の聡明さと自立したところが凄く好き。

 

ハマーン様もアクシズ提督の娘として生まれたけど、その才覚のせいで、若いうちからアクシズを一人で背負って立つ羽目になったし・・・。プライドが高くて好きな人に素直になれなくて、闇を抱えて私怨のように人を殺し、愛憎の果てに、救いを得られず・・・。

 

 六条御息所もハマーン様も本当に欲しい愛は手に入らなかった。もがけばもがくほど、相手の男の心は離れていくのに、愛のための憎しみを止められなかったんだと思う。背負うものを捨てれば、手に入ったのかもしれないけど、それもできなかった。

 

で、ハマーン様=六条御息所を支点に配役を考えてみると、

 

シャア=光源氏

ララァ=藤壺中宮(身分の低さから夕顔でもいいかなと思ったんだけど、母を求める源氏=シャアにはやっぱり亡き母の面影を持つ藤壺=ララァがあっているような気がする)

レコア=朧月夜(才気のある女性なんだけど、ふらふらと二人の男の間を行き来するところから)

ナナイ=明石の君(才色兼備で、プライドが高く、光源氏にとって重要な存在となる姫君を生んで源氏の野望に貢献したところはナナイっぽい!いつも控え目に一歩引いているんだけど、野心があって、源氏とはある意味お互いに利用しあっているところもナナイみたい)

クェス=玉鬘(源氏の娘分として利用されたり、色々な男に懸想されたりするところから)

ミネバ=秋好中宮(六条御息所と前東宮の間の皇女で、御息所が亡くなる際に源氏にあとを託したので、源氏が父親代わりになり、冷泉帝に入内させた。身分の高さとか潔癖な聡明さ、斎宮として伊勢に母親の御息所と一緒に下向するところなんかミネバって感じ。そもそもミネバってハマーン様とシャアの疑似的子どもみたいだもの)

キシリアは弘徽殿女御っぽいなぁ。

ライバルで友人でもある頭中将は、ガルマかな。アムロでもいけるかなぁ。

 

問題は葵の上、紫の上、女三宮に該当するようなキャラがいないこと。もしCDAを入れるなら、ナタリーが葵の上ポジで、少女時代の無邪気なハマーン様が若紫ポジでもいけるだろうけど、CDAはカウントしたくないので、なしだな。

 

あと、セイラさんも該当する人がいないなぁ。源氏の求愛を抜きにしたら、朝顔の姫君がいいかもと思うけど。

 

全く、こんなくだらないこと考えている暇があれば仕事しろって感じですね、はい。

 

 

ジブリ美術館/「毛虫のボロ」

日本での夏休みを満喫してきて無事帰国。今回は比較的長い休暇だったので、念願のジブリ美術館に行ってきました。

以下雑感。ネタバレ注意です。

 

まず、ジブリ美術館の感想を一言で表しますと、

 

「うわ、めっちゃ少女趣味」 

 

よく言えばおとぎ話のメルヘンな雰囲気で可愛らしいんですが、やさぐれたBBAの私にはちょっと酷な空間です…。

 

一番気に入ったのは常設展示の「映画の生まれる場所」。宮崎さんのラフ画がいたるところにあってそれを眺めているだけで幸せになれます。「ジブリ」なので、私の好きな宮崎さんの初期の監督作品はほとんどないのが残念。かろうじて映画版のナウシカのスケッチがあるくらい。目を皿のようにしてみていました。私の愛するクシャナ殿下がなかった……。エボシ御前のスケッチはあったのに。

この展示室は映画の製作過程ごとに小部屋に分かれていてとてもわかりやすいです。宮崎監督ご本人による説明書きもあって楽しい。でもこれってセル時代のアニメ制作過程なので、CGが導入されつつある現在ではやはりロストテクノロジーになっていくんですかねぇ。セルアニメが好きなので寂しいですね。

 

企画展示はジブリ映画の「食」でした。ジブリ映画には確かにおいしそうな食べ物がいろいろ出てくるので、いい企画ですね。テクニカルな説明(たとえばソーダの瓶や泡、液体をどんな風に色で描き分けているのか)はとても勉強になりました。あと、トトロのメイ&サツキの家の台所とラピュタのタイガーモス号のキッチンが再現されていました。タイガーモス号の厨房再現はなかなか希少かと。

でも、私的に一番ツボだったのは、宮崎監督が以前機内誌のために描かれたという、機内食についての蘊蓄イラスト!

戦時中の軍用機から戦後の民間機まで、機体の紹介とともに機内食の変遷について描いておられるんですが、もうこのマニアックさが大好き!飛行機の説明がとても細かい。宮崎監督の何が好きかって、リベラル思想のミリオタというのがたまらなく好きなんです。飛行機や各種メカの描写、戦闘描写(漫画版ナウシカのサパタ戦は凄いの一言)にすごく業を感じます。彼の思想はリベラルで非戦主義の筈なんですけどね。未来少年コナンのハイハーバーや風の谷の描写を見ていると原始共産主義的コミュニティを理想とされているのかなと思います。

この機内誌にも、日本軍の機内食弁当が貧弱になって日本の敗戦が近くなったことをきっちり書いていらっしゃるのはさすがです。戦後民主主義的知識人のアニメ業界における最後の大物だと思いますので、宮崎監督にはもっと若い人に向けて発信し続けてほしいです。でも、でも、そんな宮崎監督が隠しきれないほどに飛行機や兵器のフェチだというのがねぇ、すごく好き。もう、圧倒的に共感しています。

 

屋上にあるラピュタのロボット兵です。これが見たかった!天気が悪かったのが残念です。

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草に囲まれているのですが、これもそのうち苔むしてくるのかしら?

ラピュタのロボット兵が大好きです。シータを助けようとしたり、お庭の番をしているのとか、なぜか泣けてくる。知能を持ったロボットが人間を助けようとするのに弱いのかも。(当然、バトーさんを助けようとしたタチコマ@攻殻にも泣きました…うう)

 ラピュタは長い間見ていないので、もう一度見直したいねぇ。

 

 

(以下、「毛虫のボロ」のネタバレです。)

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